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Person-6
田嶋幸三
ナショナルコーチングスタッフ
U−17日本代表監督


田嶋幸三(たしま・こうぞう)
 1957(昭和32)年、東京都生まれ。76年1月、浦和南高校の主将として全国高校サッカー選手権優勝。筑波大学を経て80年古河電工に入社。日本リーグ(80〜82年)通算39試合出場6得点、3アシスト。日本代表(79〜80年)13試合(国際Aマッチ出場7試合、1得点)。
 83〜86年西ドイツ(当時)ケルン体育大学に留学。のち筑波大学大学院(同大学サッカー部コーチ)を経て、88年立教大学講師、90〜95年同大学助教授。同大学サッカー部コーチ。96年から筑波大学客員助教授として、S級指導者養成にかかわる。
 93〜96年日本サッカー協会強化委員会委員(94年〜強化委員会副委員長)として強化プログラム策定に従事。96〜98年指導委員会委員、98〜99年技術委員会副委員長。99年よりナショナルコーチングスタッフとなり、99〜2001年U-15、U-16、U-17日本代表監督。


第5回(最終回)
いつの日かワールドカップのファイナリストに
  11.27.TUE


■初めてのドイツ留学、顔を上げてプレーできなかった

−− 最後に田嶋さんご自身のことを伺いたいと思います。浦和南高校では全国優勝を経験され、筑波大学のときは日本代表にも選ばれ活躍なさいました。そして名門古河電工にはいられましたが、プレーされたのは3シーズンと短いものでした。それはどうしてですか。

田嶋 日本代表にはいったことは私にとって、誇りだし、夢がかなったことでもありました。でも、代表選手といえるほど定着していたわけではありません。40試合、50試合と出場し初めて代表だといえると思っていますから、日本代表といわれるのはなにか恥ずかしい気がします。小さいころからの夢は、ワールドカップに出るということだったんですけれど、当時は本当の意味で夢でしかなかった。24歳、25歳になって先が見えてきたときに、選手としてではなく、指導者として生きていきたいと思ったんです。

−− 小さいころから指導者になりたかったんですか。

田嶋 はい。中学校のころから学校の先生になりたかったんです。

−− 先生になって、サッカー部の顧問になりたかったということですか。

田嶋 そうです。その当時、一生サッカーにかかわっていくには、その方法しかありませんでした。そして、あるきっかけがあったのです。古河電工には本当に感謝をしているんですけれど、当時奥寺康彦さんが1FCケルンにいらして、その関係でぼくと早稲田一男(現在日章学園高校監督)のふたりで留学させてもらったんです。そのときのトレーニングの内容、環境というものが鮮烈なイメージとして残っています。

−− どのくらい留学したのですか。

田嶋 2カ月間です。その環境はすばらしかったし、とても楽しかった。いや、練習自体はすごくきつかったですよ、もちろん。何もできなかったです。今回のU-17日本代表がナイジェリアに対するよりももっと通用しなかった。

−− 何歳のときですか。

田嶋 22歳のときです。顔を上げてプレーすることさえできなかった。そういう意味で、自分の限界を感じてしまったんです。なおかつ、日本に自分の夢を実現できるような環境はなかった。「ここをがんばればこうなる」というようなものは何もなかった。このままサラリーマンをやっていくのかなぁって、非常にネガティブに考えてしまったんですね。それで、早くに選手をやめてしまったんです。


■いろいろな集団を指導するむずかしさを経験

−− それから筑波の大学院にはいられたのですね。

田嶋 そうですが、すぐにドイツに留学しました。ケルン体育大学です。

−− 何年間ですか。

田嶋 5学期間です。83年から86年まで2年半ですね。

−− そこでライセンスを取られたんですね。

田嶋 はい。B級ですが。語学を学びながらということを考えると、2年半ではそれが限度だったと思います。同時に、レバークーゼンにクラマーさんがいらっしゃったので、アマチュアチームでプレーしながら、プロチームを見学させてもらって、勉強しました。

−− そこで勉強したことが、コーチとしての原点になるわけですね。

田嶋 そうですね。それとそのころ、12歳以下のドイツ人の子どものチームの指導をしていたんです。つたないドイツ語で指導するわけですが、本当のことを言うと、教えられることのほうが多いんですが、原点といえばそれが原点かもしれません。勉強になりました。どんなレベルのチームであろうと、個人を伸ばす、チームを向上させることのむずかしさというものは変わらないんじゃないかと思います。

−− そういう意味では、筑波の大学院のときに筑波大学のコーチをされ、立教大学でも7年間コーチをなさいましたね。

田嶋 筑波大学では中山雅史、井原正巳、鋤柄昌宏といったその年代の日本のトップレベルの選手を見ることができました。立教大学には7年間いて、東京都リーグ3部から1部まで上げることができました。レベルの差はありますが、いろいろな集団を指導するむずかしさを経験し、自分のなかでは非常にプラスになったと思います。


■私の目の黒いうちにワールドカップのファイナリストに

−− 今後の目標はどういうことですか。

田嶋 ひとつは、次の世代をどう強くしていくかということを考えなきゃいけない。なおかつ、今回のU-17世界選手権の結果は真摯に受け止めて責任をきちんととるということです。辞める、辞めないということではなくて、ここで何が足りないのか、どうすれば将来もっと日本代表が強くなるのか、そういうことをどこにどう情報を分かち合えばいいのかということを、もういちど整理しなきゃいけないと思っています。このインタビューでいろんな課題をお話ししてきました。それをどう解決するのか。これは技術委員会で取り上げてもらおう、これは各指導者養成の場にシェアしよう、ということをやってはじめて、この2年半の完結があると思っています。

−− 小さいころからの夢であるワールドカップのピッチに監督として立たれるということも目標ではありませんか。

田嶋 小さいときは選手としてワールドカップに出たかったんです。それはすでに果たせずに終わってしまいましたね(笑)。もちろん、監督としてもそれは夢です。でも、私は自分が監督となって立つというよりは、私の目の黒いうちに、日本代表チームがワールドカップの決勝に出るということのほうが、現実に起こってほしいことですね。

−− 田嶋さんがやってこられたこと、これからやろうとされることが、2006年か10年か14年かわかりませんが、日本代表がワールドカップの決勝の舞台に立つという結果になりますように。

田嶋 本当にそうです。それがわれわれの夢であり、喜びなのです。

−− それは私たちの希望でもあります。長い時間ありがとうございました。(終)

*次回からは、東京新聞運動部長・財徳健治さんのお話を掲載する予定です。