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 『アイブロックスの子供たち グラスゴー 1999』

宇都宮徹壱「デジタル・ロンドンツアー AtoZ」へ
http://www.biglobe.ne.jp/dokodemo/tokusyu/london/london3221.html




●●第18回 『ブレイヴ・ハートの源流 スコットランドのスタジアム』
〜其の2:栄光と悲劇と伝説と…アイブロックス〜


■やるせない想いのままに…

 見知らぬ土地を訪れ、ホテルに面倒な荷物を降ろしたら、さてどこへ向かうべきか。
 ある人は「酒場」と言うだろう。またある人は「できるだけ高いところ」から街を一望するかもしれない。私はいつも、スタジアムへ向かう。スタジアムがその土地のどこに、どのように存在するのか、そしてそこを訪れる人々の身なりや周辺に住む人々の暮らしぶりはどうか…などなどを観察すれば、おおよその街のアウトラインを掴むことができる。
 そしてスタジアムを訪れたとき、私は初めて「そこにやってきたこと」を実感するのである。

 3月27日に行われるはずだった、ユーロ2000予選「スコットランド対ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の延期を知ったのは、その前日のことであった。私はグラスゴー中心街の広場でサンドウィッチを食べながら、ぼんやりと道行く人々を眺めていた。全ての風景が色褪せて見える。

 日本の友人、知人たちは、私が「空爆」に巻き込まれたのではないかと心配しているだろう。それよりも、かの地の友人たちは無事だろうか。バルカンで新たに勃発した戦闘は、今後どうなってゆくのだろう。そもそも自分は、何のためにスコットランドくんだりまでやってきたのだろう。不安感と虚脱感で、私は写真を撮る意欲を失いかけていた。

 逡巡した挙げ句、私は明日ゲームが行われるはずだった、レンジャーズのホームグラウンド、アイブロックス・パークへ向かうことにする。「何のために?」という自問を振り払いながら…。

 アイブロックスに向かうには、中心街の地下鉄駅「ブキャナン・ストリート」から地下鉄に乗るのが最も便利である。グラスゴーの地下鉄は、信じられないくらいコンパクトで、まるで「お猿の列車」のようだ。そいつに乗って揺られること10数分。「アイブロックス」で下車すれば、そこはもうレンジャーズのホームタウンであった。


■レンジャーズの栄光と悲劇

 スコティッシュ・フットボールの歴史と格式は、まずクィーンズ・パークがその基礎を創り、レンジャーズの躍進によって光輝くものとなった、と言って過言ではないだろう。レンジャーズの栄光は、そのままスコットランドの栄光なのである。

 グラスゴー・レンジャーズが設立されたのは、1872年(日本で言えば明治5年!)。世界最古の国際試合であるスコットランド対イングランドが行われた年まで溯る。この頃のフットボールといえば、ゴールマウスにはバーもネットもなく、「アンパイヤ」と呼ばれたレフェリーにはホイッスルがなく、そして選手たちには背番号が与えられていなかったという、まさにフットボールの黎明期。一体当時は、どんなゲームが行われていたのだろう。

 イングランドのラグビー・チームにちなんで命名されたレンジャーズは、設立以来「プロテスタントの雄」として、やがて同郷のカソリックのクラブ、セルティック(1888年設立)と常に覇を競うようになる。両者の闘いは「オールド・ファーム」と呼ばれ、現在でも「世界で最も美しく、激しいダービーマッチ」として知られている。

 とはいえ、国内におけるレンジャーズのタイトル数は、宿敵セルティックを含む他のクラブの追随を全く許さない。今季終了時までに、リーグ優勝48回。カップ戦優勝28回。リーグカップ優勝21回。内、リーグとカップの2冠が12回。3冠が5回。現在も、86/87シーズンから「無冠知らず」の記録を更新し続けている。

 もっとも、クラブの長い歴史のなかには光もあれば影もある。
 悲劇は、1971年1月2日にアイブロックスで行われた「オールド・ファーム」で起こった。タイムアップ直前にセルティックがスコアレスの均衡を破るゴールを挙げ、その数分後のロスタイムで、レンジャーズが劇的な同点ゴール。しかし次の瞬間、立ち見席の観客が将棋倒しとなり、66人が死亡、145人が重軽傷を負う大惨事となった。死亡した観客の半数は9歳の子供を含むティーンエイジャーであったという。

 イングランドでは、89年に発生した「ヒルズボロの悲劇」があまりにも有名だが、その18年前にグラスゴーで起こった事件は、「アイブロックスの悲劇」として今なおスコットランドの人々の脳裏に刻まれている。レンジャーズが痛ましい悲劇を乗り越えて、欧州カップウィナーズ・カップで見事優勝を果たしたのは、翌72年のことであった。


■デヴィー・クーパーの伝説

 巨大な煉瓦造りのアイブロックス・パークを見上げたとき、私はふと米国の画家、エドワード・ホッパーの作品を思い出した。夕日を浴びたアイブロックスの街は、人通りも少なく、活気もなく、まるでホッパーの作品のような「乾いた死のイメージ」に包まれていたのである。

 コープランド・ロードに面したスタジアムの正門にやってくると、私はそこでさらに奇妙な光景に出くわした。門の鉄柵がレンジャーズのレプリカユニフォームやマフラーで飾られ、いくつもの花束が添えられてある。アイブロックスの正門は、臨時の霊廟となっていた。目をこらすと、レプリカユニフォームの背番号は「11」。「COOPER」という名が縫い付けてある。

 デヴィー・クーパー。彼こそ、近年最も愛され、その死を悼まれたフットボーラーであった。のちにわかったことだが、クーパーはレンジャーズはもとより、他のクラブのサポーターからも愛される、スコットランドでも希有の存在であった。

 鳴かず飛ばずだったクライドバンクという地元クラブから、1977年にレンジャーズに移籍したクーパーは、アイブロックスでウインガーとしての頭角を現す。小柄だが巧みなドリブルに長けたレフティで、特に大舞台で勝負強さを発揮。87年のアバディーンとのリーグ・カップ決勝で、ジム・レイトンが立ちはだかるゴールマウスを破った決勝FKは、今なお語り種となっている。

 89年にマザウェルに移籍するまでにクーパーは、3度のリーグ優勝とカップ戦優勝、7度のリーグカップ優勝に貢献。82年からは代表にも名を連ね、3年後のワールドカップ・メキシコ大会欧州予選では、ウェールズ戦とオーストリアとのプレーオフで貴重なゴールを挙げた。86年の本大会で、もし当時の代表監督アレックス・ファーガソンがクーパーの起用方法を誤らなければ、スコットランドは初めて決勝ラウンドに進出していたかも知れない、とさえ言われている。

 しかし伝説のウインガーの死は、実にあっけないものであった。現役引退後の95年に、故郷クライドバンクで脳溢血のため死去。まだ39歳になったばかりであった。その突然の死に際しては、彼が所属したレンジャーズ、マザウェルのサポーターはもとより、ライヴァルのセルティックのサポーターまでもが哀悼の意を表して花束を捧げたという。

 私がアイブロックスを訪ねたのは、図らずもデヴィー・クーパーが物故してから4年と3日後のことであった。


■「物語」を共有すること

 明日ゲームが行われないスタジアムは、死のような静寂に包まれている。普段は熱気と喧騒に溢れた現場ばかりを見てきた私にとって、スタジアムの死のイメージは次第に耐え難いものとなっていった。

 「そろそろ帰ろうかな…」
 そう思ってダウンジャケットの襟を立てたとき、私はふいに子供たちの歓声を耳にした。振り返ると、地元の子供たちがストリート・フットボールに興じているではないか。

 私はこういう光景に出会うと、居ても立ってもいられなくなる。気がつくと私は、子供たちのもとに駆け寄って、夢中で彼らにシャッターを切っていた。謎の東洋人がシャッターを切るたびに、子供たちから歓声が挙がる。死の静寂に包まれた街で、私は子供たちの生の輝きに魅了された。

 思えば私は、これまで何度も「子供たち」という存在に救われてきた。どうしようもない不安感や焦燥感に駆られたとき、いつも私に写真の楽しさを思い出させてくれたのが、被写体としての「子供たち」だったのである。スコットランドにやってきて、私は初めて夢中でシャッターを切る喜びを噛み締めていた。

 子供たちに別れを告げてから、私は「土地が持つ物語」について考えていた。
 当初私が違和感を覚えた、アイブロックスの「死のイメージ」。それは、結局のところ「無菌状態の国」からやってきた私自身の、思い上がった「負の印象」でしかなかったようだ。

 人間が棲む「土地」には、本来「死」と「生」のイメージが隣り合わせで共存している。「死のイメージ」から隔絶されている我が国の都市生活者は、「土地」固有の因習から自由ではあるが、一方で「土地」そのものへの愛着や帰属意識は極めて希薄である。

 この地で産湯をつかり、レンジャーズのサポーターズソングを子守り歌にして育ってきたアイブロックスの子供たちは、やがて成長の過程のなかで「アイブロックスの悲劇」や「デヴィー・クーパーの伝説」を伝え聞きながら、地元クラブへの愛情を深めてゆくのだろう。そうした「物語」を連綿と紡ぎながら、レンジャーズは1世紀以上の歴史をこの地に刻んできた。

 「百年構想」をうたうJリーグ。しかし、その脆弱な歴史ゆえに、私たちは「悲劇」や「伝説」といった「物語」を共有するに至っていない。スコットランドと我が国との彼岸の歴史の差。それはすなわち、「物語」の有無の差なのではないだろうか。(つづく)


【スコットランドへの招待】

アイブロックス・パーク IBROX PARK

 名門グラスゴー・レンジャーズのホームグラウンド。収容人数5万0403。レンジャーズは1872年の設立後、最初のスタジアム「FLESHERS HAUGH」から4度移転して、1899年から現在のアイブロックスを本拠地と定めた。

 このスタジアムはこれまで輝かしい栄光とともに、数々の災厄にも見舞われてきた。いわゆる「アイブロックスの悲劇」は一度だけではない。1902年4月のスコットランド対イングランドの国際試合で25名が死亡。61年の事故では2名が犠牲となり、以後死者は出なかったものの、67年には8名、69年(奇しくも71年の「悲劇」と同じ1月2日)には24名が重軽傷を負う事故が発生している。なお71年の「アイブロックスの悲劇」を追悼する試合が、スコットランド代表対レンジャーズ・セルティック選抜チームとの間でハンプデン・パークで開催され、8万人以上の観客を集めた。これ以降、立ち見席を含むスタジアムのセキュリティが抜本的に見直されるようになり、アイブロックスは現在のような安全で快適なスタジアムに改修された。

 昨シーズンのデータによれば、レンジャーズのホームゲームでは観客数が3万5000人を下回ることは一度もなく、セルティックとの「オールド・ファーム」は常にソールドアウト。同カードによるカップ戦ファイナルの観客数は、なぜか「5万2000」と記録されている。

 グラスゴー中心街からのアクセス方法は、QUEENS STREET 付近にある、地下鉄 BUCHANAN STREET から乗車し、7つ目の IBROX で下車。この地下鉄は山手線のようにぐるぐる回っていて、およそ30分で一周するので、方向音痴の方でも安心。ただし地下鉄の車内は妙に狭いので、ゲームがある日は壮絶なラッシュが予想される。

住所: 150 EDMISTON DRIVE, GLASGOW G51 2XD
HP: http://www.ibrox.dircon.co.uk/


付記:
前回の冒頭で触れた「カズ、ブコバル91移籍」は、結局年棒がネックとなって不履行に終わった。カズはクロアチア国外での完全移籍を希望しており、イングランド1部リーグのクラブにアプローチしていると伝えられている。



 宇都宮徹壱(うつのみや・てついち)
 
UTSUNOMIYA,tete,Tetsuichi

 1966年3月1日 福岡生まれ。
 小学校5年からフットボールに興じるも、大学時代にレギュラーポジションを得るまで、ベンチ暮らしが続く。92年、東京芸術大学大学院美術研究科修了。その後、映像制作会社に勤務。94年から「ダイヤモンドサッカー」(テレビ東京)、「BSワールドサッカー」(NHK)などの番組制作を担当。
 97年、何の見通しもないままに「写真家宣言」を敢行。運命に導かれるような格好で、一路バルカン半島に向かう。98年、旧ユーゴスラヴィア諸国の現状とフットボールとの関わりを描いた『幻のサッカー王国/スタジアムから見た解体国家ユーゴスラヴィア』(勁草書房)を発表。以後、フットボールの視点から、民族問題、宗教問題を切り取ることをテーマとして、活動を開始する。同年フランスで開催されたワールドカップでは、「サポーターの視座」から取材。『サポーター新世紀 ナショナリズムと帰属意識』として勁草書房から発売中。