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STUDIO AUPA
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第1回 「世界に通用する選手」を育てる指導者として 「意外に小柄なんだな」 待ち合わせ場所に現れた日本代表コーチ、小野剛氏に対する最初の印象である。 岡田日本代表監督の傍らで君が代を聞いていた小野氏には、何故か大柄な偉丈夫というイメージを持っていた。ワールドカップ出場の影の功労者、縁の下の力持ち、なんてところから勝手に連想していたのだろう。先入観というのはあてにしてはならない。 日本サッカー協会S級コーチライセンス、イングランド上級コーチライセンス、米国上級コーチライセンスの資格を持つ小野氏は、日本サッカー界を代表する若手コーチの1人である。 その小野氏にコーチとしての経歴から、様々なノウハウの一部を語ってもらった。 <選手時代> 小野氏は1962年、東京生まれ。千葉県立船橋高校(市立船橋ではない)を卒業後、筑波大学に進んだ。もちろんサッカー部である。ポジションは最初FW、次にMF、そしてサイドバックと次第に後ろに下がってくる。高校の途中からはずっとサイドバックだった。サッカーを始めたのは中学から。選手としてはね、戦績というのはそんなにないですね。一流なんてものじゃなかったです。サイドバックが一番おもしろかったですね。タイミングをみて攻撃参加して、コンビネーションを使って突破したり、フィニッシュに絡むプレーもかなりできたし。大学4年のときには副キャプテンだったんだけれども、靱帯を切って半年くらいサッカーができなかったこともあって、選手としての見切りはつけてました。 <コーチとして> その頃には教員とか(サッカーを)指導するという、そういう道に行こうと思ってた。大学3年の頃だったと思うんですが、田嶋(幸三)さんがドイツから戻ってきて、僕たちを指導してくれたんですけれども、その時からサッカーのコーチというものに対しては、非常に強い意識を持つようになった。田嶋さんが来て、今までと全く違う形でサッカーというものを指導し始めて、それが強烈なインパクトになった。 小野氏はその後、筑波大の大学院に進み、コーチ学を専攻する。 田嶋さんがドイツに行ったように、外(海外)に出て勉強してみたいというのがありましたね。最初田嶋さんと1カ月ドイツに行って、そのあと1人でイングランドで勉強しました。 帰国後、小野氏は筑波大でコーチをしながら大学院を卒業。その後も助手として大学に残り、2年間コーチをつとめた。その時の教え子が中山や井原である。また、現在ジュビロ磐田の森山など当初はまったく無名の選手を発掘し、後に代表になるまでに飛躍するその礎を築いたのも小野氏であった。 <成城大学へ> 縁あって小野氏は成城大学の教員となる。サッカー部のコーチをつとめながら6年間、一般体育を教えた。 成城大は決して強いところじゃなかったんだけれども、やる気のある選手が多くて、東京都(大学)リーグの3部から始めて2部に上がって、1部の入れ替え戦に何度か出ていくあたりにまで育てた。 成城大は幼稚園から大学まで一緒のキャンパスにあるんですよ。中学、高校、大学がグランドを分け合って使ってるんで、練習も思うようにできなかったんです。でも、(グラウンドは)朝が比較的空いてたんで朝練習の日をつくりました。自由参加で、中高大ごちゃ混ぜでやる気のあるヤツはおいでということで。テーマを設定して、4対4のゲームを中心にやっていく。 午後の練習でも大学生に何人か指導スタッフをつくって、彼等は大学の練習はもちろんしっかり出るんですけれども、中学高校の練習に顔を出して、私が指導したことに沿って指導していく。まあ一貫指導の仕組みをそこで作ったわけです。 最初は大学のサッカー部というのが自分に与えられたことだったんですけれども、(学外からは)選手が採れない。けど、かなりの確率でかなりの数が下から持ち上がってくる。それが主力になるんだったら下を育てた方がいいなあと。 <欧米留学で意識した「世界に通用する選手」の育成> 成城大で5年目に大学の在外研修の制度を利用させてもらって、ヨーロッパの方に研修に出たんですよ、丸々1年。 イングランドのリバプールにある大学に籍を置いて、欧州中ほとんどの国へ行って勉強しました。ワールドカップ・イヤー(1994年)だったのでワールドカップを見て、アメリカでコーチのスクールを受講して、それから南米にも行きました。 ワールドカップに「あれ、今までの常連じゃないぞ」という国が出ていた。ボリビア、ノルウェー…。ちょっと調べたところ、育成の賜物っていう感じなんですよ。また、人口も少ないけれども毎回出場している国もいる。オランダなんかはその典型かもしれない。そういうところが少ない人口をどうやってうまく育てているのかな、とか。そのへんのところを勉強しようということでね。ちょうどそのころから、自分の研修の目的というか、方向性というのが変わってきた。どうやったら世界に通用する選手というのは育成されていくんだろうと。それを体系化してやっていくのが日本のサッカーにとって緊急の課題だろうなと。それまではコーチとしての自分を高めたいということだったんですけれども。 折りしも「ドーハの悲劇」によってワールドカップ予選に敗退した日本サッカー界には新たな潮流が生まれていた。 当時(日本サッカー協会の)強化委員会が加藤久委員長、田嶋幸三副委員長の時代だったんですけれども、もう「代表チームを集めてさあ強化」という時代じゃないだろうと。大切なのは「次世代を担う選手たちをどうやって育成していくか」ということなんだ、ユース年代こそが日本のサッカーを発展させて、ワールドカップに出て、なおかつしっかりした戦いができる途なんだと、いうことを強く打ち出していった頃だった。 ちょうどイングランドにいる間に電話をもらって、強化委員会の方で一緒にやってもらえないだろうかと。 帰国後小野氏は強化委員に就任する。 <強化委員として長期的な強化プログラムに取り組む> 強化委員会はここ数年にわかに注目を浴びるようになった、日本サッカー協会の中の組織である。各年代の代表チームの強化、トレセン活動など強化育成全般にかかわる。とかくフル代表との関係ばかりがクローズアップされるがそうではない。長期的なビジョンに立った強化育成も強化委員会の主要な仕事の一つである。 強化委員としての小野氏が残した実績として、日本サッカー協会の「強化指導指針」のとりまとめと、同協会の機関誌「JFAニュース」誌上での論文「長期的視野に立ったサッカー選手の育成」「プラクティカルトレーニング」の連載がある。スペースの関係で詳しくは触れられないが、それらを通して小野氏が日本サッカー界の育成面で果たした役割は大きい。ぜひ一読をお勧めする。 欧米研修から帰国してから、大学の仕事よりも協会の仕事の割合がどんどん大きくなってきていた。そんな折り、一緒に強化委員をやっていた今西さん(現サンフレッチェ広島総監督)に誘われまして。日本サッカーのために大学を辞めてサッカーに専念しないかと。 大学の制度を利用して海外へ研修へ行って1年しかたってないということもあって、大学に対して申し訳ないというのもあったし、色々悩んだんですけれども、自分がサッカー界で何かできないかと常々思っていたし、日本サッカーのために自分の力が発揮できるというのはずっと夢だったので、大学を辞めてサンフレッチェ広島所属ということになったんです。1996年4月のことです。 サンフレッチェでは「ユースダイレクター」ということで下部組織全体の統轄をやっていました。サンフレッチェとしての一環指導のノウハウを形成していく、そのためにコーチたちの指導をしていくんですね。まあ、協会の方の仕事と半々でしたけれども。 <代表チームのスカウティング活動> 育成に関する仕事のかたわら、小野氏はオリンピック代表、日本代表のスカウティングにも関わるようになる。 強化委員会としてはすべての代表チームに対してバックアップするという仕事がありますから、必要に応じてスカウティング活動というのはやってました。自分以外にもいろんな人がやってましたよ。まあ、でも自分がやることが確かに多かったですけど。 ただ、育成の仕事を離れてということじゃなくて、それはメインでやってました。それプラス、スカウティングをやっていた。 自分が(スカウティング活動の)中心になってやるようになったのはアトランタ・オリンピック予選からです。サウジ戦などはスカウティングがうまく生かされたと思います。本大会でもスカウティングを担当してました。 そういう中でワールドカップ予選のスカウティングチーフということでやり出したのは一次予選の頃。海外のいろんな視察に関してはスカウティングチームというのを作って、そのチーフをやってましたので、すべての情報が自分の所に一元化されました。 時間的に本当に忙しくなってきたのは最終予選にかかるあたりからです。ホーム&アウェー方式になった時点で、代表チームがどこかで試合をやっているときに他の国に(スカウティングに)行って、帰ってきてはまた次の国という感じで。 そして「加茂日本」は、国立での韓国戦、中央アジア遠征を経て「岡田日本」へと受け継がれる。 日本代表がウズベキスタンから帰ってきた日、岡田監督の方から連絡がありまして。あまりにも短い期間でリスクも高いけども手伝ってもらえないかと。(既にその前から、自分としても)代表チームには時間もエネルギーも割いてたんで、そういう意味で「今までとサポートする形が変わるだけですから、100%自分の力を発揮したいと思います」というようなことを言ったと思います。 翌日から強化委員という立場でチームに合流しました。 (つづく) |